2016年から2023年の7年間で、イギリスの獣医サービスの平均価格は63%、飼い主が実際に動物病院で使ったお金の合計では53%上昇したとされています。どちらも物価上昇のペースをはるかに上回るこの数字は、ペットオーナーだけでなく、現場で働く獣医師にとっても無視できない現実です。
この状況を「市場の問題」として調査に乗り出したのが、イギリスの政府機関・CMAです。2026年からその調査結果をもとにした改革がいよいよ始まります。
CMAとは?
CMA(Competition and Markets Authority / 英国競争市場庁)は、イギリスの市場における競争の公正さを守るための政府機関です。消費者が不当に高い価格を払わされていないか、情報不足によって選択の自由が損なわれていないかを監視・調査する役割を担っています。
なぜ獣医業界が調査対象に?
CMAが獣医サービス市場の調査を開始したのは2023年9月のこと。
調査のきっかけになったのは、2016年から2023年の間に獣医サービスの平均価格が63%上昇したというデータです(飼い主が実際に動物病院で使ったお金の合計では53%の上昇)。同期間のインフレ率(CPI)は32%で、いずれも物価上昇を大幅に上回るペースでした。(CMA最終報告書 GOV.UK)2年半にわたる調査の結論は「獣医業界では競争が十分に機能していない」というもの。ペットオーナーが費用を比較する手段がなく、情報の非対称性が価格上昇を後押ししてきた、とされています。
2026年3月、最終決定が出ました
2026年3月24日に最終決定が発表されました。主な改革内容は以下のとおりです。
① 料金表の公開義務 すべての動物病院が、基本的な診察料や処置の費用をウェブサイトに掲載することが義務付けられます。
② £500以上の治療には書面での見積書 £500を超える治療を行う場合、事前に書面で見積書を発行することが義務付けられます。
③ 処方箋料(Prescription Fee)に上限設定 第1品目:£21、追加品目ごと:£12.50。それ以前は£30以上を請求する病院もありました。
④ コーポレート系列であることの開示 CVS、IVC、Medivet、Pets at Homeなど大手企業グループ傘下の動物病院は、そのことを明示することが義務付けられます。
⑤ 価格比較ウェブサイトの創設 RCVS(英国王立獣医師会)の「Find a Vet」サイトを拡張する形で、動物病院の費用を比較できるウェブサイトが整備される予定です。
大手6グループ(CVS・IVC・Linnaeus・Medivet・Pets at Home・VetPartners)傘下の病院は2026年のクリスマスまでに対応、独立系の個人病院はそこから3ヶ月程度の猶予が設けられる見通しです。
現場の獣医師の本音
ここからは、「現役獣医師として正直に思うこと」をお話しします。
「見える化」はすでに始まっていた
「CMAの改革によって獣医費用がようやく見える化する!」という報道を目にするたびに、少し首をかしげてしまいます。標準的なサービスの費用(診察料、ワクチン、去勢・避妊手術など)は、すでにウェブサイトに料金表を掲載している病院も多く、電話で問い合わせれば普通に教えてもらえる情報です。飼い主さんが少し手間をかければ、今まででも十分に手に入る情報でした。
一番難しいのは「診察中に積み重なる費用」
現場で働いていて、費用の透明化という観点で本当に難しいと感じるのは、病気が疑われる場合の診察中に積み重なる追加費用です。
たとえば耳や皮膚を痒がっている猫が来院したとします。診察の中で耳垢や皮膚の細胞診(Cytology)が必要と判断された場合、診察料に加えて£20〜40の追加費用が発生することがあります。さらにその結果次第で、追加の検査や治療について相談することになれば£150〜200以上になることも。外用薬(耳薬やイヤークリーナー)だけでも£30〜100ほどかかります。
目を気にしているという主訴で来院した場合でも、症状によっては角膜潰瘍のチェック(フルオレセイン染色)、シルマーティア試験(STT)、眼圧測定などを行うことで、あっという間に£20〜80の追加費用が積み上がります。
こうした追加費用は、実際に動物を触診してみるまで判断できないものがほとんどです。料金表を見やすくしたとしても、「想定していた費用より高くなった」という飼い主さんの驚きや不満を完全になくすことは、正直難しいと感じています。
£500以上の見積書義務について
「£500以上の処置には書面で見積書を発行すること」という義務については、「え、今までやっていなかった病院があるの?」というのが正直な感想です。高額な処置を前に、費用の説明をきちんと行うのはすでに多くの獣医師が日常的にやっていること。CMA改革の前後でここが大きく変わるとは、あまり思えません。
「病気になって初めて知る」費用の現実
もう一つ、飼い主さんの立場から考えると重要なことがあります。
10年以上前に子犬・子猫を迎え、ずっと元気に過ごしてきた子が、今まさにシニアになって初めて病気になる。。。そういう飼い主さんが、現在の動物医療費を聞いて言葉を失う場面に、私も何度も立ち会ってきました。
10年以上、大きな病気がなかった子の場合、飼い主さんの「医療費の感覚」はワクチンや予防薬の金額で止まっています。そこへ突然、血液検査・超音波・入院を含む数千ポンドの見積もりが出されれば、驚くのは当然です。毎日現場で費用の変化を目の当たりにしている私でさえ、スピードに驚くくらいです。飼い主さんが「なぜこんなに高いのか」と納得できないのは、まったく無理のない話だと思っています。
価格差が一番大きく出るのは「病気のとき」
実はここに、CMA改革の見えにくい限界があります。
ワクチン・診察料・去勢避妊といった標準的なサービスは、個人病院も企業病院も地域ごとの差はある程度ありますが、劇的に違うというほどではありません。しかし、病気になったときに必要な検査・処置・入院の費用は、病院間・地域間で最も大きな価格差が出やすい部分です。
CMAが義務化する「標準サービスの料金表」は、ワクチンや診察料の比較には役立ちます。でも、飼い主さんが一番驚き、一番戸惑うのは、病気になったときに「こんなにかかるのか」と感じる費用です。そこへの回答としては、標準的なサービスの料金表を見やすくするだけでは、十分ではないかもしれません。
値上がりの恩恵は、現場の獣医師には届いていない
「獣医費用がこれだけ上がっているなら、獣医師たちも儲かっているはずでは?」と思われる方もいるかもしれません。
正直に言うと、そんなことはありません。
現場で働く獣医師やスタッフの給与は、医療費の値上がりに比例して上がっているわけではありません。給与の上昇は物価の高騰のスピードに追いついていないことがほとんどで、多少お給料が上がっても、実質的な生活水準はどうにか現状維持できるかどうか…むしろ以前より苦しくなっているという声も少なくありません。
そもそも獣医医療費が上がっている背景には、イギリス全体の物価高騰も大きく関係しています。光熱費、薬・医薬品、医療機器、消耗品などなど、病院の運営に関わるありとあらゆるものの価格が上がっており、運営コストだけでも10年前と比べると相当変わっています。診療費の値上がりをすべて「利益のため」と見るのは、少し違う面もあるのです。
ただ、そうした背景を踏まえたとしても、獣医医療費の値上がりのスピードは速く、飼い主さんが驚くのはもちろん、毎日現場にいる私たちスタッフでさえ「また上がったのか」と感じることがあります。慣れるはずの現場でさえそうなのですから、飼い主さんが「なぜこんなに?」と思うのは、まったく無理のないことだと思っています。
また、個人病院の院長でもない限り、一介の獣医師として診療費をコントロールすることはできません。料金の変更はマネジメントサイドで行われ、現場からフィードバックをしても反映されることは少ない。定期的に料金が引き上げられるシステムの中で、現場の獣医師はその都度アップデートされた料金を使って診療を進めていくしかありません。
だから飼い主さんが見積もりを受け取って「なんでこんなに高いんですか」と聞かれたとき、正直なところ、私自身も完全に腑に落ちた説明ができるかというと、それは難しいというのが本音です。
こうした背景もあり、多くの獣医師はCMAによって適切な価格競争が促され、費用の透明化が進むことには好意的です。それは、飼い主さんのためだけでなく、現場で働く私たち自身にとっても、もう少し納得できる医療費体系になってほしいという気持ちがあるからだと思います。
BBCのドキュメンタリー番組Panoramaが獣医業界のCMA調査を取り上げた回で、取材に答えたある獣医師がこんな言葉を残していました。
“People hasn’t changed, industry has.”
現場で働く人間は変わっていない。毎日、目の前の命を救うために働いている。でも、industry(業界の構造・ビジネスのあり方)は変わってしまった。。。その言葉が、ずっと頭に残っています。
それでも、費用の透明化は大切
費用の透明化そのものは大歓迎ですし、必要だと思います。標準的なサービスの費用をウェブで簡単に比較できるようになれば、初めてイギリスでペットを飼う方、ペットを連れて来英された方には特に助かる情報になるはずです。
「CMAで全部解決!」という単純化には現場の人間として複雑な気持ちもありますが、飼い主さんが事前に相場観を持ちやすくなること自体は、良い変化だと思っています。
参照


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[…] 📋 CMA(競争市場庁/Competition and Markets Authority) とはイギリスの公的機関で、消費者保護と市場の公正な競争を監視する役割を持っています。近年、獣医費用の急騰が問題視されたことを受けてCMAが調査に乗り出しました。CMAの調査結果と2026年からの改革については、番外編【獣医費用】値段の「見える化」CMAって何?で詳しく紹介しています。 […]